2021年11月18日木曜日

東海道53次ノオワリ㉓

 東海道53次ノオワリ㉓

石部宿から草津宿 大津宿をへて三条大橋まで

前回のお話はこちら

東海道53次、いよいよ最後の旅路を歩いてきました。

有給を取得していたので今回も一泊の道程です。朝イチの東京駅発東海道新幹線に乗り込みまずは京都まで。京都から在来線に乗り換え前回の終点石部まで。

石部駅から少し奥に入ると旧道へと出ます。


石部宿から草津宿までは2ルートあり、上道10.5㌔と下道9.8㌔に分かれます。上道から行っても下道から行っても最終的に道は重なるのですが、下道を歩くことにしました。下道は草津線の線路と重なるように道が続いていきます。線路沿いを西へ西へと歩く。名神高速のガード下をくぐり進むとやがて穏やかな旧道を思わせる道へ変わっていきます。周囲にはお寺が多く、途中にいくつか道標もありました。

しばらくすると和中散本舗があります。予約をすると見学もできるようでした。


道中薬和中散ぜざいの本家で家康の腹痛も治したとか。

さらに先に一里塚。

この一里塚も日本橋からいくつ見て来ただろう… 

その先には肩かえの松。旅人がこの松の木の下で休息をしたそうです。

その先名神高速を越えたあたりに手原醤油があります。このあたりは民家の軒先に屋号が掲げてあったりしました。


道はなだらかに伸びていき、国道1号がそばにありますが旧道は少し奥にあるので少し静か。民家もちらほらありますが、迷うことはありませんでした。


さらに行くと鈎の陣跡。25歳の若さで病死した足利九代将軍の碑。
旧道は東海道新幹線の高架下をくぐり、草津宿へと入っていきますが、その前に付近にあったお寿司屋さんでお昼ご飯をとりました。

いつもだとタイミングよく食事は取れないので、ちょうどお昼ごろ食事ができて良かったです。 街道を進んで行くと中山道との追分に出ました。

中山道は歩く予定は無いので、そっか~ここが中山道とつながるのかぁ、なんて思いながら先の街道を見つめました。
追分のそばに田中七左衛門本陣跡があります。現存する本陣跡としては東海道随一の大きさ。見学ができるようでしたので入ってみました。

本陣内は資料などは写真撮影禁止でしたのでいくつかの写真だけ。

こちらは一番位の高い方が泊まる座敷で一段畳が上がっているのは下から襲われても大丈夫なように一段高くなっているのだとか。

こちらは調理場。たくさんのかまどが並び、本陣での人の出入りの多さがわかり想像すると慌ただしい炊事の様子まで見えてくるような気がしました。

さて、東海道53次浮世絵の草津宿。先を急ぐ駕籠やに茶屋で休息している人々。


現代の様子はこちら。

浮世絵も掲げてありました。今では想像もつかないけれど確かに数百年前は駕籠も旅人もこの地この場所にいてきっと浮世絵のような感じで日々が過ぎていたんだろうな、と思うとじんわりします。昔の人に会うことはできないけれど、現代を生きている私が昔の人と気持ちがつながれるような感じがして街道歩きはとても面白いのです。
この日は大津まで行く予定でしたので、また歩き始めます。
その先は特にめぼしい史跡などはありませんが、途中に地蔵尊など多く見かけました。


こちらは萩の玉川。日本六玉川のひとつで、玉のような清水が湧き出た萩の名所だったそう。さらに進むと弁天池があり西へと進んで行くと立場跡。
その先の史跡が民家の軒先にあったりしたので、特に写真は撮らずに先を進みました。
途中小さな川を越えたりして瀬田唐橋に出ます


橋の反対側は琵琶湖へと続いているのですが車が映っちゃうのと、工事中だったので逆側だけ撮りました。
この先は琵琶湖をぐるりと囲うように旧道は進みやがて大津宿へと入っていきます。
特に写真に収められそうなところもなかったのであまり写真は撮らずあるきましたが、いくつか目印になるものはありました。


大津は道のそこかしこに旧道とわかるように表示や石碑がありました。こちらもJR大津駅にほど近い場所にあります。こちらの案内石碑に近い場所にこの日のホテルを取っていたので1日目はいったんここまで。大津宿にはすでに入っています。
大津駅前まで出て、夕食にとお蕎麦を食べました。

ホテルにももちろんお風呂はありますが、銭湯が好きなので近くにある銭湯まで夕食の後行きました。

昔ながらの番台の銭湯で、一日歩いて疲れたあしをゆっくりと温め疲れも癒えました。常連のおばあちゃんと少しだけお話しして、お休みなさいの挨拶をして銭湯から出てホテルに向かいました。

***

さて2日目。朝6時に起床して身支度を整え、朝食をとり7:30にホテルを出発。
ガイドブックを片手に意気揚々と歩き始めます。昨夜の銭湯のおかげで足の痛みはほとんどなく、体はだいぶ元気。
この後ちょっとアクシデントがあるのですがひとまず置いておいて…、旧道を道なりに進んで行きガイドブックをちらちらと見ながら歩きます。まだ朝早い時間なので人もまばら。
街道ちかくに京阪電鉄の上栄町駅があるのですが、その付近につながる道をすぎるとだんだん道は上り坂、山道へと入っていきました。


峠をひたすら進み、途中にあった地蔵尊に手を合わせるとかすかに線香の香りがしたりして、静かな峠道を歩きました。やがて峠を越えて民家がある町へ入りふと気が付きました。
あれ?この道…これで合ってる…? 地図をもう一度よく見直してみると、大津宿から三条大橋に向かうには2通りの道があり、今まで歩いてきた道「小関峠越え」と「逢坂山ずい道」に向かう街道。本陣跡があるのは逢坂山ずい道へ向かう街道なので旧道からは外れている事に気が付きました。頭の中でえええええっとなりながらも、せっかく旧道をずっと歩いてきたからやはり最後も旧道を歩きたい、と思い もちろん昔も小関峠越えで歩いてきた旅人も多くいたとは思いますが、やり直しをする事にしました。まずはもう一度よく地図を見て、旧道とつながる四宮駅まで出て、そこから電車で大津に戻ることに。
今まで歩いて越えた峠を今度は電車で戻るのです。 幸い朝早くから行動していたので時間はまだあるのと、足もまだ元気。最後の締めくくりに2パターン歩けて良かったではないか、と思い直し向かうは大津駅。


電車に乗車できるタイミングもよかったのであっという間に大津駅に到着。
さて、ここからまた歩き始めます笑。
間違えたポイントまでさくさく歩き、今度は間違わず旧道へ向かう。
すぐに大津宿の本陣跡に出ました。

その先を進んで行くと逢坂山関跡に出ます

ここで一旦浮世絵を。

東海道53次大津宿の浮世絵は左奥に走井餅の茶屋が描かれています。手前の井戸は走井。
逢坂山関跡のすぐ先に元祖走井餅本家碑があり浮世絵の説明なども掲示されていたのですが、この先街道を進んで行ったところに月心寺があり、その寺に走井茶屋跡があり、井戸の走井も残っているようだったので、餅本家碑では写真を撮らず月心寺へと向かいました。
なのですが、月心寺の門は閉じており、中の茶屋跡も見られませんでした…
なので対比写真はこちらを。

中を拝見できず残念… でも三条大橋まではあと少し。気を取り直して歩きます。
道は国道としばし重なり、高速道路の高架をくぐるとまた道は分かれます。
伏見追分。
右は京へ続く道、左は伏見に続く道。
右手へ進むと、いよいよ最後京都府へと入ります。

途中に朝歩いてきた小関峠との合流地点も過ぎました。やっぱり街道は繋がっているのね、なんて思いつつ歩きました。
四宮駅付近を過ぎ、五条別れ道標。

さらに西へ西へと進んで行くといよいよ最後の峠越えとなります。

急な登り道を歩いていき、頂上を越したあたりに旧道の道標。

その先に荷車のモニュメントなんかもありました。

三条大橋までは目と鼻の先。

ここからはサライ、もしくはZARDの負けないでが心なしか聞こえてくるような気がしました。
道は道なり、あとはまっすぐと進むだけ。蹴上の交差点を過ぎると観光客も増えてきました。 

こちらは白川橋の道標、京都の現存する最古の道標だそうです。
白川橋を越え、大将軍神社を越え、目の前に三条大橋が見えます。


ついに到着!京都三条大橋。
橋を歩きながら流れる鴨川を見やりました。

橋のたもとに旅人が。

さて最後の浮世絵。東海道53次京師(京都)三条大橋はこちら


現在の様子はこちら

さすがに人が多く、映ってしまうので少し角度は違いますがこれが最後の現代との対比です。

江戸日本橋から京都三条大橋まで百二十六里六町一間。約500㌔。本当によく歩きました。
最初に歩き始めてから、途中さくぽんの介護やコロナ禍もあり一時休止していた時期もありましたが、6年かかりすべて踏破出来ました。
たくさんの思い出が出来ました。さくぽんを背負い息を切らして登った箱根の峠、途中の甘酒茶屋の甘酒は本当に染みるように美味しく、街道を歩いているときに見た怖くなるほど美しい富士山。静かな旧道の街並み、途中声をかけてくださった優しい地元の方。実際に歩いてみないと感じる事ができなかったであろう沢山のことを知ることが出来て本当に楽しかったし、本当に歩いて良かったと思う。
文中にも書きましたが、今は会うことが出来ない昔の方たちも東海道を歩いている時にきっとこんな気持ちだったんだろうな…と気持ちがリンクする時があって何だかタイムトラベルしたような感じになることが多々ありました。
旅をするということは、いつかは旅は終わるということだし 戻ってこられる自分の家があるからこそ、旅に出て旅を終えるんだな、と少し寂しい気持ちではありますが怪我もなく無事に旅を終える事ができて良かったです。

また次の旅路を想いつつ、東海道53次これにて終わります。