~原宿から吉原宿をへて蒲原宿まで~
前回のお話はこちら
2016年、初の東海道53次の続きでございます。
前回は沼津で美味しいお寿司を食べて大変満足でした。
今回からまた一人でもくもくと東海道の続きをあるいてきました。
朝始発の次の電車に乗り込み、東京駅より東海道線を使って熱海まで。東京駅からは値段もさほど高くないのでグリーン車を使いました。土日だとホリデー料金があってさらにおトクでした。
東京駅で買ったサンドイッチを車内で食べて、ひと眠りすると熱海まではあっという間。
熱海から乗換え、前回終着点となった原駅まで。
朝8:30頃到着して、さっそく歩き始めます。
原駅より北側へ道2本抜けた通りが、旧東海道。西へ歩みを進めます。
ほどなくして、左手側に神社があったので本日のご挨拶に参拝させて頂きました。
参拝後、またすぐ歩き始めます。
しばらく歩き水路を越えた先に一里塚があります。一里塚は今では一里塚があったとされる石標がありますが、当時は街道を挟んで両側に設置されていました。
さらに進むと愛鷹浅間神社。
改称記念碑もあります
愛鷹浅間神社は本殿屋根が赤でした。
神社を過ぎたあたり、歌川広重の東海道53次、「原」はこのあたりより描いたと思われます。
こちらが浮世絵の「原」
旅人が名残り惜しそうに、美しい富士山を見上げているのが印象的です。
こちらが現在の様子。
がーん!富士山が雲に覆われていて全然見えない・・・・
悲しいので富士山のある場所に赤丸をつけておきました。
江戸の頃、このあたり一帯は沼地となっていて、現在は街道沿いにも多数住宅があるので、街道から北側に見える富士山も当時のようには見ることはできません。
余談ですが、沼地も街道よりさらに北側のほうにはまだ現存されている場所もあるようです。
富士は見えずとも、先へは進むのです。
JR東海道線の踏切を越えてほどなく、東田子の浦付近。
途中 途中につい、富士山を見上げつつ、少し雲の晴れてきた富士を見て浮世絵を描いた当時の富士を心に浮かべました。
旧東海道は、昭和放水路へと差し掛かります
昭和放水路の脇に、増田平四郎の像も。
増田平四郎は、天保7年の大飢饉や、度重なる水害から村を救うため浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に排水路を明治2年に完成させた人物で、生涯を通してこの大仕事を成し遂げた人物だそうです。
現在では重機や技術の発達で、水路をつくることも 問題なく出来るとは思いますが、当時を思うと本当に大変な仕事だったんだろうな・・・と頭が下がります。
きっと何度もうまくいかなかったり、作業をしている中でも水害があったりと苦労して、それでも村のためにと水路を作って一生をささげて自分の職務を全うして。完成した当時はどんな気持ちだったんだろう・・・と胸が熱くなりました。
自分を改めて振り返ってみて、今の職場は4社目だし 一生を通して成し得たい何かがある訳でもなく、生活のために働いているんですが、当時とは環境も違いますが 人生の終盤に私は何を思うんだろう・・・と 松林に落ちていたまつぼっくりを手に取り ふと考えてしまいました。
私の人生はさておき、この増田平四郎さんのような人や、何も無い土地を開拓して 畑を作り 家を建て 村を作り 生活をしてきてくれた 沢山の人たちがあって 今の自分たちの暮らしへとつながっていく。 昔の人たちにとても感謝の気持ちでいっぱいになりました。
***
また歩き始めると 天気は曇りでしたがいくらか空が晴れてきたように感じました。
ふと、パン屋さんの看板を発見。
何か甘いものが食べたいな。と ピーナツクリーム入りのパンを購入。
こちらのパン、外側がフランスパンのように少し固めででも中がふわっと。クリームも粒のピーナツが入っていたりと120円くらいだったんですが、すごくおいしかった。
あー、もう1本買ったらよかった。と後から思いました。
原宿から吉原宿までは11.7キロ。
東田子の浦駅の線路を横断した先より旧国道1号と合流し、歩いていましたが、道はまたふたたびJR東海道線を北へと横断します。
空も晴れてきて、富士山も顔を出し始めました。
河合橋を越えると、周囲はパルプ工場が立ち並びます。
このあたりの道が美妙にわかりにくいんですが、国道沿いのコンビニ付近に旧道を示す案内図があるので図と地図を確認しつつ、旧道を歩きます。
ほどなく、左富士神社。
神社の中に一里塚碑もありました。
さて、歌川広重東海道53次「吉原」。
こちらが「吉原」の浮世絵ですが、浮世絵の中に描かれる「左富士」。東海道を東から西へ行くにはいつも右側の富士山が見えるのですが、このあたりは左側に富士が見えることからこの名がつきました。
こちらが現在の様子。
浮世絵に描かれている松はあるにはありますが、某工場の敷地がある為、左富士が綺麗に見えず残念・・・・
先ほどの左富士神社を越えた先がこちらの浮世絵の場所になりますが、左富士の立て札があるので、場所は見つけやすいと思います。
更に道なりに進んでいくと平家越えの碑があります。
こちらは、源平の戦いで平家の軍政がこのあたりに陣取ってましたが、源氏側が夜間に川上を迂回した時に周囲の水鳥が飛び立った羽音で、超びっくりした平家の軍政が戦わないで退却したそうな。で、この故事に因み石碑が建てられたそうです。
現在は水鳥もいなく、沼の名残もありません。
橋の上から見たらカモが2羽いました。
さらに進んでいくと、吉原本町駅のほうへと道は続いていきますが。東海道 宿場「吉原」は和田川にかかる橋を渡ったあたりから始まり、岳南鉄道吉原本町駅を出たあたりがかつての宿場だったそうです。
現在の街道沿いは商店街として栄えてます。
人気のなさ気なところでパチリ。 このあたりが宿場であったと思われます。
ちょこちょこと跡地の標示があったりします。
こちらは、「西」木戸跡なので宿場の西のはずれです。
ということで、吉原宿に到着!
時刻はお昼頃だったのですが 本来であると「各宿場で食事をとる」がマイ・ルールなのですが、先ほど食べた美味しいピーナツロールでさほどおなかがすいておらず、そのまま次の宿場へ向かうことに。
次の宿場町「蒲原」へは商店街を抜けて、バスターミナルの吉原中央の手前を左折、道なりに行き、途中139号線と交わりつつ富安橋へ。このあたりも旧道がわかりづらいですが、道にちょこっと旧道の案内板がありました。
富安橋を越えて、しばらく行った先の民家の脇に「鶴芝の碑」があります。このあたりより富士を眺めると中腹に一羽の鶴が舞うように見える部分があるため「鶴芝」と呼ばれたそうな。
鶴芝の碑があるところが、普通に民家だったので写真は撮らなかったです。
この先、ポイントとなる道まで結構なにも無いので、今日はこのあたりをつらーっと走りました。
走っていてちゃんとチェックしてなかったのですが、本来旧道は国道1号の先を右手に入っていくのですが、間違って1号をつらーっと走ってしまいました。
JR身延線を横切り、しばらく走ってストップ。
ポイントとなる「常夜灯」と道標があります。
その手前の道を右へ。 迂回するように旧道を歩き、右手に松岡水神社と渡船場跡にでます。
現在は立派な橋がかかっていますが、当時は富士川を船で渡っていました。
街道一の急流といわれていた富士川を渡ります。
今では川の流れを調整できるよう、整備されていますが 当時は大雨での氾濫もすごかったのだろうなぁ・・・と想像できます。
橋から下を見ると結構な急流。
ふと見上げると、すっかり雲の晴れた富士山。
写真ではいまいち伝わらないと思うのですが、この時の富士山が本当に震えるほど綺麗で感動しました。
しばらく足を止めて富士山を眺めていました。
自分の知らない場所へ行って いろんなものを見るというのは 旅の醍醐味だなぁと思います。
私の場合は自分の身近でそれを味わっているので、もっと見たいものや知りたい場所もありますが、自分の手の届く範囲で楽しんでいて、それもまた良いなぁと。
***
富士川を渡り、道路をわたった少し右手の小道より坂をあがり(旧道標示あり)道なりに行くと、間の宿「岩淵」へと続きます。
途中、小休本陣があります。
中が見学出来たので、入ってみました。
入り口には梅の木。
中が、かなり広かったです。
大名が休んだとされる、「ジョウダンの間」がありました。
日本家屋って本当に機能性も見た目も美しいなぁと思います。
お掃除もしやすそう。
こちらは御台所。
当たり前ですが、シンクも木製でした。
日本家屋に住みたい・・・
こちらは、お部屋の入り口の段差のあるところなのですが、なんとこの木のふたがとれて、中が冷蔵庫として活用していた空洞というか、もの入れになっています。
床下は非常に涼しく、湿度も安定していた為、野菜などの貯蔵庫として使用していたそうです。
この建物は今から160年前に建築されたそうですが、今でもとても綺麗です。
素晴らしい・・・!
市の方だと思いますが、説明をしてくださる方がいらして、質問すると丁寧にお答え頂きました。
ありがとうございます。
小休本陣を出て、その先には一里塚。
道なりに行き、東名高速道路の下を抜け、ぐるりと迂回してまた高速道路を横切り、右手側に坂を下りて行って下り切ったらまた右手側に歩みを進めます。その先左側に赤い祠の一里塚。
一里塚は約4キロごとに設置されているので、4キロも歩いたっけ・・・と思いつつ、その先には蒲原宿の東木戸跡があります。
木戸は宿場の両端に設置されているものなので、蒲原宿の入り口に到着というわけです。
しばし歩くと、浮世絵 歌川広重の「夜の雪」碑があります。
こちらが、浮世絵 東海道53次の「蒲原」。
雪のまるみを帯びた線が降り積もる雪の情感を表わしていて 寒さも伝わるような一枚だと思います。
こちらは現在の様子。当たり前ですが、だいぶ様変わりしています。
浮世絵を描いた付近がわかりやすく現存されている場所はあまり無いので、今回の53次は道も迷わず、とても歩きやすいと言えると思います。
この写真の先の道を左手側に入ると、当時の旅籠など当時の構造をそのまま維持している建物も多くあり、それぞれに解説板があります。
中には内部を見学できるところもあるのですが、蒲原宿に着いたのが16時過ぎだったため、ほぼすべて16時にて閉まる為、内部を見れませんでした。
ですが、もと旅籠の建物だったところが、良かったらどうぞ、ともう閉館してるのに中をあけて下さって見させて頂きました。
そのほかにも、少しだけ覗く位ですが見ていきますか?と声をかけてくださったところも。
中を見させて頂いたのはこちらの建物。
江戸の頃、「和泉屋」という上旅籠を営んでいたそうで、建物は180年前に建てられたもの。
今では建物の左右が区切られていて右側のみ市の管理で公開しているようです。
中には籐でできた飾りがつるされてました。
いろんな動物があって可愛い。
建物内部は奥に広く2階もあり、江戸の頃の様子が色濃く残されてました。
せめて外から写真を・・・とパチパチ撮っていたら、声を掛けて下さり、時間外にも関わらず、開けてくださって説明もしてくださった市の方(だと思います)にとても感謝です。
ありがとうざいます。
東海道を日本橋から歩いています、と話していたら静岡は長いから~、まだまだ先がありますから、道中気をつけてくださいね、と暖かいお言葉を頂き うれしかったです。
今回の東海道で出会ってお話した方はどの方も優しく暖かかったです。
人にやさしくしてもらうとうれしい。。
自分も人にやさしくしないと いけないなぁ・・・と反省しました。
蒲原宿では食事処が無かったので、またもや「食」を抜かしてしまいました。
時刻は16時過ぎ。次の宿場まではおよそ4キロ。歩ける体力は残っていましたが、だいぶ日も暮れてきて、このまま行くと次の「由比」に着くころには夜になってしまうと思われたため、今回の東海道53次は蒲原で終了することに。
このあたりは温泉も無いので、とりあえず蒲原駅へと向かいます。
こちらは宿のはずれの西木戸。
旧道を蒲原駅へと向かう。 日も落ちてきてさみしい。
余談ですが、東海道を歩いていると「常夜灯」が点在しています。
これは道しるべにもなる「あかり」つまり、街灯の役割をしていたのですが、今回あるいていて、全然人気のない場所もあって昼間でなかったら絶対歩きたくない感じの場所もありましたが、提灯片手に歩いていた江戸の頃、常夜灯をみつけたら、どんなに安心出来たかしら。と当時の旅人の心境を思いました。
JR蒲原駅到着。ここから50分くらいで熱海まで一旦向かいます。
熱海で何か食べようかな・・・日帰り温泉もいいなぁ・・とスマホで検索していたのですがめぼしい場所を見つけられず、熱海駅で駅弁と缶ビールを買い 東海道線のホリデーグリーンで乗車。
さっそく、ピールをプシュっと。
ビールはアサヒ派ですが、このプレミアムアサヒが美味しくてしばらくやめていたビールがこのプレムアムのおかげで復活してしまい 毎日ごくごく飲んでいたらまた太り始めたのでまたしばらくビールはやめています。(飲んじゃったけど)
そんなこんなで東海道53次ノツヅキ、原~吉原をへて蒲原 はこれにておしまい。
出来たら月内にもう1度続きを歩きたいんですが・・・予定は未定です。
東海道53次 まだまだ続く。