2017年7月8日土曜日

東海道53次ノツヅキ⑰

東海道53次ノツヅキ⑰

~御油宿から赤坂宿をへて藤川宿から岡崎宿まで~

前回のお話はこちら

本日より夏休みに入りました。今年は10日間休みます。

さて夏休み1日目、さっそく東海道53次の続きを歩いてきました。

前日は残業をした為、帰宅が遅く4時間ほど寝て早朝家を出ました。

いつも東京駅から東海道新幹線に乗車しますが、今日は気分を変えて品川からの乗車。
品川からのほうが、東京駅みたいにごちゃごちゃしていなくてとても良かったので今度から品川からの乗車にする事としました。

「ひかり」で豊橋まで。車内で朝ごはんを食べたりスマホをいじってたりするとあっという間に着きます。ここから名鉄線に乗り換えて前回の終着点「御油駅」まで。

名鉄線に乗り換えたところで、アナウンスがやたら多い事に気が付きました。聞いてみるとまさかの人身事故・・・。前回の東海道53次の旅もいきなり人身事故で電車遅延からはじまり まさかの今回もまた・・・。 やはり私は愛知県とは相性が悪いんじゃないか・・というのも否めない感じに。

とりあえず、御油駅のひとつ手前の駅までは電車が動くようなので、手前の国府駅で下車。

地図をみると御油駅までさほど遠くないので もう歩いてしまうことに。

***

20分しない位でしょうか、御油駅まで歩き 旧道に向かいます。

御油宿から次の赤坂宿までは非常に近く、2㌔程しかありません。


宿場左手側に本陣跡があるはずですが、なぜか ぼけーっと歩いていて見落としました。(笑)

旧道をもくもくと歩きます。

やがて御油の松並木に差し掛かります。


この松並木が本当に美しくて素晴らしかった。

松並木を抜けると 田園が広がり とても静かで 時折涼しい風が吹き、とても気持ちが良く 旅をしている楽しさと、昔を思う気持ち 色々まじって とても幸せな気持ちのまま歩きました。

旧道はあっと言う間に赤坂宿へとつながりました。


赤坂宿の見附跡。 監視の人がいた場所です。

近くに神社があったので、本日の旅のご挨拶の為、参拝させて頂きました。


さて、歌川広重 東海道53次「赤坂」。


旅籠の中の様子が描かれています。

現在でも江戸時代からほとんど変わらず 営業を続けていた旅籠、「大橋屋」が赤坂宿にあります。この広重の浮世絵のモデルとなった旅籠と言われていますが 残念ながら2015年に営業は終了し、建物は市が管理しているようです。



中の様子はわかりませんが こちらを現在のようすとして写してきました。

そうそう、大橋屋さんの手前に本陣跡


また高札場もあります。

大橋屋さんを過ぎ、西へと旧道を歩いていきます。

途中、有料道路の長沢トンネル下を越えると一里塚もあります。


音羽川と沿うように 旧道を歩きます。

このあたりは国道や高速道路は別として、旧道に関しては おそらく道路の拡張工事もあまりされていないように思います。 かつての東海道の景色を少し残しているように感じます。

国道1号と重なりつつ歩いて行くと、わかりやすい表示がありました。


「左、東海道。」確かに左手側の道は旧道の雰囲気を残していました。

しばらく行くと法蔵寺があり、徳川家康が手習いをした紙をかけたという松の木がありました。
といっても かつての松は今はもうなく、新たに植えられたものです。


境内には新撰組、組長 近藤勇の首塚もありますが、境内は散策せず 先を歩くことにしました。

旧道は国道1号と重なったり、それたりを繰り返しつつ まっすぐ進みます。

途中、常夜灯もちらほらとあります


途中で名古屋鉄道の建物と、車庫?に差し掛かりました。

なんだか、良い雰囲気だったのでパチリ。


赤い車体が緑に映えます。

国道1号をずーっと歩いていき、途中左手に進んで行くと、東棒鼻跡に出ます。

棒鼻とは、宿場の入り口にある棒の杭が立っている場所で、宿場の入り口の目印となっていました。


歌川広重の浮世絵「藤川」ではこのように描かれています。


ここからの旧道もかつての宿場を思わせる、木格子のある家々、街道の道幅もおそらく昔の雰囲気を残しています。


道沿いに高札場跡


問屋場跡があります


またしばらく行くと、本陣跡。


無人でしたが、宿場町の資料館もありました。


資料館は少し立ち寄り、中を拝見しました。

宿場の資料がいくつか置いてあり、芳名帳があったので名前を書いてきました。

やがて藤川宿の西はずれ、西の棒鼻跡へと差し掛かります


棒鼻の横には歌碑があり、「藤川の しゅくの棒はな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」
と書かれていてその隣の訳をみると 「藤川宿の棒鼻の先を見渡すと、杉でつくった表示があり付近の店には西浦、吉良からもってきたうでたこが売っていて たこの足がぶらさがっている」とおそらく当時の風景そのままを歌にしたのであろう事がわかります。
これを書いたのは歌川豊広。(広重の師匠)

最初この歌を読んだ時「うでたこ・・・・?」 うで蛸って種類のタコがいるのかな?と思ったんですが、ひょっとして ゆでタコなんでしょうか。。


この先、しばらく行くと名鉄線の線路と交わるところが吉良街道と東海道を分けている場所となり、右側の東海道へと歩いて行くと藤川の松並木が姿をみせます


時刻は13:30を過ぎていましたが、炎天下の中歩いていて水分だけやたら摂取しているからか、あまりお腹は空かず、昼食をとる場所も無かったので(藤川宿の始まりらへんには古民家カフェがありました)さらに先を急ぐことに。

写真でもわかりますが、それにしても暑い!
歩いている人なんてほとんどいません。

熱中症にならないようにこまめに水分を補給すべく、いつもはサコッシュに荷物を入れていくんですがリュック持参で 常にペットボトルの水を切らさないようにつめて、梅干し、手ぬぐい 日焼け止めを入れてきました。 日に焼けたくないので、つばのかなり広い帽子をかぶり、サングラスを装着、横にスリットの入っているTシャツにアームカバー、普段は短パン&レギンスが多いのですが、足首が焼けてしまうので マキシ丈の裾のかなり広がるスカートを着用。そんないでたちなので 見た目はかなり怪しい感じ。(笑)

でも人も全然歩いてないし、気にせず先に進みます。

国道1号を進み、途中二股に道の分かれるところを左に逸れ、乙川を越える。

乙川を越える手前に 田んぼのおそらくカラスよけ?それとも不法投棄の注意喚起?だと思うんですが、人形が2体あってちょっとシュールでした。


夜 見たら泣きそうな怖さ。

乙川を越えるところは旧道が分断されているのですこし道を逸れて川を越えてからまた旧道に戻りました。

やがて国道1号を越えてしばらくいった先に大岡越前守陣屋跡があり、寄ってみました。


時代劇で目にしますが、大岡越前の陣屋の跡で、江戸にいた大岡越前が実際には住む事は無かったようですが、一度は明治に廃止されたものを藩主を慕う旧藩士や領民によって残されたものだそうな。

陣屋跡を越えると、一里塚。



ちゃんと榎が植わっていました。

その先はまたもや国道1号と並行しつつ行くのですが途中、昔の石のままの常夜灯がありました。


見えずらいですが、囲いの中にある常夜灯、頭の玉の部分は180年少し前のもので常夜灯自体は 戦争時 空襲にあいながらも形を残していたのですが、劣化が進んで痛みが多くなった際に宝珠を残し、取り壊したそうです。

***

藤川宿はかつて徳川家康が浜松城へ行くまで本拠としていた岡崎城があったため、城下町特有のつくりになっていて街道も城に安易に入って来れないように、曲がり角がやたらたくさんあり、「二十七曲がり」と呼ばれています。



表示の地図を見るとわかりますが、赤線で書かれている感じにあるくのです・・・。

方向音痴なのでまかり角を間違えずあるけるだろうか・・・と不安でしたが、丁寧に案内の表示がされているので その表示のとおり進み ほぼ間違えなく歩けました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ですが、本当に曲がり角が多すぎて 心の中で「家康~~~~! 曲がり角作りすぎなんじゃないの!?」と思いつつ、西日のきつい中、てこてこと歩きました。

あまりにも曲がり角で疲れて写真を撮る気力が無いほどでした(笑)

途中、西本陣跡を発見。


もう宿場には入っているので、今日は出来たら さらに先の知立まで行きたかったですが、時間も夕方になっていたので、今日は藤川宿を終点とする事に。

とりあえず、宿場から最寄り駅のほうへと進みたいのですが えんえんと続く二十七曲がり・・。



「八丁村」の案内のところまで差し掛かったところで名鉄線岡崎公園前駅の近くだということに気が付き、「やっと帰れる~~~」と安堵しました。

何も食べず8時間ぶっ通しで歩いていたので、結構しんどかったのです。

近くに八丁味噌が買えるところがあったので寄りました。


閉店ぎりぎりだったので、味噌カツのたれ のみ購入。


オフィスの同僚に「お弁当にカツを持って行って 一緒にみそカツにして食べよう~」とLINEしたらかなり喜んでいました。

名鉄線で帰る前に、何か食べようと思い、駅前にあった釜揚げうどんのお店にイン。

ざるうどん&天ぷらを注文。


勢いよく 食べてしまいました。 やはり、夕方まで食べないとお腹がすくようで 歩いているときはあまり感じなかったんですが体は正直でした。

名鉄で豊橋まで行き、帰りも「ひかり」でびゅーんと帰ってきました。

***

最初はどうなる事かと思った今回の東海道53次。

見どころもかなりあり、二十七曲がりではしんどかったですがとても楽しく歩けました。今日の移動距離は22.6㌔程です。


東海道53次、次回は秋ごろ行こうかなと考えてます。


まだまだ続く。

2017年6月24日土曜日

東海道53次ノツヅキ⑯

東海道53次のツヅキ⑯

~二川宿から吉田宿をへて御油宿まで~

前回のお話はこちら

東海道53次の続きを歩いてきました。

今回の東海道は今までの中で一番ある意味過酷だったかもしれません。 では、さっそく。

前回、ようやく愛知県入りした東海道53次。

朝7時頃の新幹線ひかりで東京駅を出発し、向かうは浜松へ。

浜松から前回の終着点二川駅へと東海道本線を乗り継ぎます。

浜松から乗換、東海道本線の豊橋行きに乗り込んだところで車内アナウンスが。

どうやらこの先向かおうとしているまさにその駅 二川駅~豊橋駅の間で人身事故発生と。

えええええ・・・・・

乗車している電車は途中の新居駅止まりとの事。

どうしよう・・・ 二川駅までは他に沿線も無く、運転再開は見通しがたってない様子。

とりあえず、そのまま電車に乗って新居駅まで。

新居駅で降ろされ、スマホでバスで行けないかとか色々検索してみたのですが・・・ 

とりあえず新居駅を出て、駅前にバス停があったので、豊橋方面のバスに乗り込む。バスの本数もとても少なく、不安で胸がいっぱい。

GPSを見つつ、バス停の検索をしたまましばらくそのバスに乗っていましたが、結局 二川駅まで乗り継げるバスは無く、途中で下車。

下車した場所から2キロほど歩き、結局東海道線まで戻ってきました。

戻った駅は東海道線鷲津駅。

先ほど降りた新居駅から1駅しか移動していなかったので、無駄に疲労しました。

駅に戻ると、まだ電車は動いておらず 駅の中や外で みんな立ち往生している様子。

私もいきなり疲れたので、もう移動はあきらめて運転再開まで待つことに。

今回の東海道では愛知在住のお世話になっている方にお昼に会う約束もしていたのですが、電車の再開時間が読めず、時間的にも厳しいかもしれない旨LINEで連絡を取り、私の気持ちもどんどん萎えていきました。

なにもこんな日に人身事故なんて・・・ しかも日帰りなのに・・・ 新幹線代もばかにならないのに・・・

せっかく朝早い新幹線に乗ったのに、時刻は10:30過ぎ 本当だったらとっくに歩き始めている時間・・・ 考えれば考えるほど萎えます。

結局運転が再開し、二川駅に着くころには11時を過ぎてました。

2時間ほど押しています。

すっかり気持ちは東海道を歩くテンションでは無くなっていたのですが、ここまで来たし・・・ 歩くか・・・。 と 重い足取りで歩き始めました。

二川駅前を西へ向かう。


目印の道標があります。

その先交差点のところが火打坂。

坂を上り、登りきった先を左へ。国道1号と並走して歩く・・・・ のですが、どうやら道を間違えしばらく北側に向かい歩いてしまう。

げ、間違えてる・・・!と気が付いた時には結構北側へ歩いてしまっていて、気持ちもまた暗くなります。(笑)

スマホのGPSで自分のいる位置を確認して、とりあえず国道1号方向へ戻りました。

さて、東海道53次、二川の浮世絵。


これは豊橋へと向かう丘陵地帯をゆく旅人が描かれているのですが、道に迷っている私の写した現在がこちら。



本来だったら国道1号方向にもどり、しばらく続く旧道を写せばよかったんですが、すっかり気持ちも落ちてしまっていたので 間違っている方向を歩いているのにパチリ。
まぁ、道に間違うのもここのところはあまり無かったんですが・・・これも思い出か。と言う事にします。

***

やっとこさ旧道に戻るとちょこっと案内もありました。


そっか、こっちの道だったか・・・と 歩いて来れなかった先の旧道を振り返る。

なんだかついてない日はとことんついていない日なのです。
まさに今回の東海道はそんな感じでした。(道を間違えたのは自分のせいですが)

ここで、愛知県在住のお会いしたかったM氏より連絡が入り、ちょこっとだけでも会えそうな感じに。

この先で待っていてくださっているようなので、スマホのバッテリーが8%しかなく 慌てて充電をしつつ 旧道を先へと向かいます。

***

なんとか合流出来てランチを一緒にとり、今までの散々な感じをわーっと 話して、だーっと食べて わーっと解散。 忙しいところ時間を割いて下さって申し訳無かったですが、久しぶりにお会い出来て嬉しかった。

がんばってね!と送りだして頂き、ようやく テンションも持ち直してきました。

炎天下の中、日焼け止めをし直しつつ、また歩き始めます。

旧道は国道1号と重なり、ひたすら西へと向かいます。

途中一里塚はあるはずなんですが、なぜか見つけられず。もくもくと歩く。

東八町交差点まで差し掛かると道路脇に東惣門の模型があります。


惣門は、城や主要な街道の外郭に建てられていて、ここには見張りの人がいて監視をしていたようです。

この先の街道はかつての吉田城を思わせるような、屈折した道なりとなります。

地図を見つつ、左折したり 右折したりを繰り返し進んでいきます。

途中路面電車の線路をまたぎ、先へ進むと吉田宿本陣あとがあります。


本陣跡の場所にうなぎ屋さんがありました。


うなぎ、食べようかな と少し考えましたが、ランチを取ってまだ時間もあまりたってなく 無理には食べることも無いか・・・と また歩きはじめました。

街道は、その先「湊町神明社」の角を右折。豊川にかかる橋を越えます。

さて、ここで 浮世絵 東海道53次「吉田」。


奥に見えるのはおそらく現在だと「吉田大橋」だと思いますが、位置的にもう少し左手がわを私はあるいているので、そこから 現在のようすとして写真を撮りました。

現在の様子がこちらになります。


橋を渡る手前に、お菓子やさんがあり みかんのシャーベットがあったので ここでしばし休憩。

店内でシャーベットを食べ 少し足を休めてから 橋を越え、その先の御油宿へと向かうのでした。

豊川を越え、またひたすら西へと続く旧道。

途中に瓜郷遺跡があったので寄ってみました。



昭和11年の道路拡張工事で貝塚が発見されて、出土した土器から弥生時代の遺跡である事が判明。 何度かの発掘調査をへて国指定の史跡となったようです。

遺跡の脇にベンチがあったので腰をおろして 当時の生活を考えてみました。

弥生時代からはじまった日本の稲作ですが、この当たりでも 畑や稲を作り 狩りをして、また当時の海岸線よりさほど遠くない場所に集落があったそうなので 漁業もおこない、生活をしていたんだなぁ・・・と思いを馳せました。

***

遺跡をあとにし、その先 豊川放水路を越え(ここは歩道が確立されておらず歩くのがとても怖かったです。 車の交通量も多いので)

JR飯田線の線路を越えやがて国道1号と合流し、名鉄線の線路を更に越え西へと歩きます。

ここでまた少し迷いました。 今回は「なんとなくこの道が旧道だろう」といったカンが全く働かず(笑)本来の方向音痴をいかんなく発揮していたように思います。

幸い、あれ?違うかな?と気が付くのが割合はやめだったので、歩く道の修正は早めにできました。。

途中国道1号と旧道は少し離れますが、旧道沿いに「大社神社」があるのでそこを目印として歩く。



大社神社にはこいのぼりが掛けてありました。

大社神社の先、姫街道と交差。

姫街道とは 少し前に通ってきた見附宿から、浜名湖の北側を経由して御油宿まで続く60㌔の街道で、浜名湖の南側が通行できなくなった場合の迂回路だったり、本当かは不明ですが女性が多く歩いたとされる街道だそうです。


姫街道の脇に常夜灯もありました。

その先、音羽川を越える。


夕方のそよそよ吹く風が気持ちよく、しばし川を見てたたずむ。

その先には、高札場跡。


ここで右折してその先に問屋場跡。


ちょうどこの当たりが、御油宿の横町となります。

と、いうことで 御油宿到着!

本来であれば、その先赤坂宿まで歩く予定でしたが、時間的に御油宿でタイムリミット。
朝の遅延さえなければ・・・と もやっとしましたが、今回の旅路はここで終えることとしました。

かつての宿場の中心はその先を左折した場所になります。

最後に浮世絵東海道53次 「御油」の紹介を。


旅人を自分の宿へとひきとめてるなんだかユーモラスな浮世絵。

現在の様子はこちら。


この先左側にかつての本陣があったので、かつては御油宿のメインストリートとなっておりました。

***

さてさて、名鉄名古屋線の御油駅から豊橋経由で東京へと帰ります。

御油駅までは徒歩10分ほどでしょうか。

駅前に喜多方ラーメン屋さんがあったので ちょっと早いけど夕食にしてしまおうと 味玉ラーメンを注文。


さほど距離は歩けなかったものの、炎天下の中歩いていたので疲れていたのもあり、ラーメンの塩っけが美味しかったです。

***




豊橋駅の新幹線のホームから桃色にそまる空をみながら、今日の一日を振り返りました。


なんだかついて無い1日だったなぁ。。。と思いましたが、久しぶりの再会は嬉しかったし、旅の最後のラーメン 美味しかった。 

まぁ・・・こうゆうのも 思い出だよね とぼんやり思いつつ、こだまにゆられて東京へと向かうのでした。


おしまい。