~金谷宿から日坂宿、掛川宿をへて袋井宿まで~
前回のお話はこちら
東海道53次のツヅキを歩いてきました こんにちわ すずです。
前回は10月中旬でしたので約1ヵ月半ぶりです。
いつものように「ぷらっとこだま」で東京駅から静岡駅まで新幹線のチケットをとりました。
朝、暗いうちに家を出て 6時半のこだまに乗車。前日は残業をしたので、とても眠い。
今回は新幹線の中で睡眠はとらず、スマートフォンをいじったりしていたらあっという間に静岡に到着。 今度は鈍行の浜松行きに乗り換えて金谷駅まで。
金谷駅で下車して 準備運動をしたのち、本日のスタートとなります。
金谷駅のガード下をくぐり、西へ。
ふと見上げると真っ青の空のなかに飛行機雲の白いすじ。
なんとなく、トクした気分になりつつ 今日の旅路も楽しくなりそうだと 意気揚々と歩きます。
道なりに進んでいき、少し大きめの通りに出ますがその先の道標があり 迷いません。
まず最初にたどり着くのが「石畳茶屋」
こちらでは、ランチなども取ることが出来るようで 時計をみると9時前でまだ開店はしてなかったので写真だけ撮り先に進みます。
石畳茶屋から、金谷坂の石畳がはじまります。
箱根越えでだいぶ鍛えられた石畳の道、さくさくと歩いていると突然スマートフォンから警報が鳴りました。画面を見ると「大規模な地震が発生」と標示が。
町内放送もなり始めて 私の少し先を歩いていた夫婦の方に「あの 警報なってますね」と聞くと「ああ、これ訓練だから。今日は一斉訓練の日なんだよ。本当の警報だったら逃げてるよ」と言われて「ああ、びっくりしました!良かった」と一安心。
どうもありがとうございます と挨拶をして 先に進ませて頂きました。
ぐんぐん歩いていきます
途中、すべらず地蔵尊があったので「石畳ですべりませんように」とお祈りしました。
(石畳は歩きやすいようにみえて、実は歩くにくく復元された石畳はまだ歩きやすいですが古くからの現存のものはコケが生えてたりしてすべったりします。雨の日、雨上がりなどかなりすべるのです。)
石畳の坂を登りきると、右手側に進みます 途中に諏訪神社と諏訪原城跡がありますが 街道より少し奥側にあるので寄らず、その先の菊川坂の石畳へ入ります。
菊川坂の石畳は調査の結果江戸時代後期のものだとわかったそうです。
古くからある史跡、後世にも伝わっていくと良いなぁと思いながら歩く。頬にかかる風がすごく気持ちが良くて足を止めると すすきの穂に高い空。 秋だなあ・・・と実感。
本当にとても気持ちの良い日でした。
間の宿 菊川に差し掛かるまでに何人かの人に会いましたが、みなさん私が声をかけるよりも先に挨拶をしてくださって ここまで来る前に出会った人、すべての人と気持ちよく挨拶が出来ました。
途中であった地元のおじさま方に「今日はどこから?」「京都まで歩くんでしょ」と聞かれ、今日で13回目な事と、この先 袋井まで行きたい事を話したら、「まだこの時間だもの、行けるよ」「この先、あと1回きつい坂あるからね」「道中気を付けてケガしないようにね、頑張れ!」と応援してもらって とてもうれしかった。
全く知らなかった土地を一人で歩いているので、声をかけてもらう事で本当に安心出来るというか、とても力づけられるのです。それもみなさん笑顔で接してくれるので本当に嬉しい。
茶畑で農作業している方も、ふと横を通り過ぎる原付に乗ったおまわりさんも、みんな「おはようございます」「こんにちわ」と声をかけてくれて 挨拶することって大事なんだなって改めて思ったし、やっぱり静岡の方はとても優しく 素敵だなぁと思いました。
***
道はなだらかに下ったりして、また歩いている途中には道標もあるのでわかりやすいです。
「間の宿 菊川」
間の宿とは宿場と宿場の間にある宿のことで、宿場から宿場の間が長かったところや、宿場との間に難所が多い場所などは 間の宿があったようです。しかし、間の宿では旅人の宿泊は禁じられており 菊川宿でも金谷宿の許可が無いと、旅人の宿泊は出来なかったとか。
菊川を抜けると、道は次第に急こう配の上り坂になります。
途中でみつけたみかんが美味しそうでした。
少し、息をあがらせながら ふと 顔をあげると 山にかこまれた中に茶畑。
吹く風は心地よく、ふっと息をつきます。
更に歩いて行くと、江戸時代創業の茶屋「扇屋」さんがあります。
店先でこどもが遊んでいたので「おはよう」と声をかけると恥ずかしそうに「おはよう」と言ってくれました。可愛い。この茶屋では名物「子育て飴」があります。
今回はザックがとても小さいもので来ていたので御土産用には買わず、御挨拶のみで茶屋を後に。
峠を歩いていると、向こうの峰に「茶」の文字が見えました。
更に先に一里塚。
またこの小夜の中山峠には 沢山の歌碑があり、途中 途中 読みながら歩いていましたが、峠を越えることの大変さを詠んだ歌碑もあり、西行法師が69歳の時に詠んだ「年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山」の句碑を見て 69歳でこの峠越えをしたなんて・・・と健脚さにびっくりしつつ先を歩くのでした。
ちなみに現代語訳はこちらです
「年を老いてからまたこの峠を再び越えることが出来ると思っただろうか、いや思いはしなかった。小夜の中山を越える事が出来るのは命があるからこそだなぁ」
***
歩いていると団体様 3組と遭遇しました。
東海道53次のツアーの方々です。私は一人で歩いていますが、ツアーだとガイドさんの話を聞けていいなぁと思います。
団体様の中の一人の男性と少し話をしましたが、今日で18回目でここまで来て、来年の12月に終わるツアーだそうで、1日6キロ程度しか歩かないのでなかなか進まないと言ってました。
私が一人で歩いている事を知ると少しびっくりしてましたが、「この先の道中もケガせず、頑張ってくださいね」とやさしく送りだして頂きました。
団体様の先をいかせてもらって、少し下り坂のところは走りました。 今回もトレラン用のシューズで来たのでてってこ走ります。
さて、歌川広重 東海道53次「日坂」
小夜の中山峠の途中にある「夜泣き石」に旅人が足を止めています。
夜泣き石はここで臨月の女性が山賊に殺され、その時赤子を産み落としましたが、赤子を思い泣く女性の魂がこの石に乗り移り夜ごとに泣き声を上げたと言い伝えがあるそうな。
現在の様子がこちら。
本当だと峠の方向に写したかったのですが、団体様が写っちゃうので峠を抜けた方向をパチリ。
夜泣き石跡はいまでは街道の端にありますが、当時はこの街道の真ん中に石があったようです。
さて、どんどん先を進みます。
この先には、曲がりのある急な下りもありつつ日坂宿へとたどります。
屋号を残す家も多くあり、屋号の立て札をたくさんみました。
常夜灯を目印に、本陣跡へ至ります。
こちらは本陣跡。
このあたりの街道は古い面影を残し、各家々には屋号の立て札もありました。
中を見学できる旅籠もありましたので 少しおじゃまする事に。
中は結構広いです。
奥の階段から2階へも上がれました。
旅籠、本陣は現在では跡のみある場所が多い中、旅籠の中までみれたのは感激。
旅籠を出ると高札場も。
この高札場のところに旅籠「川坂屋」もあるのですが、団体様がいらして中に入れずそちらは断念・・・。 さて、時刻はお昼少し前。そういえば 朝ごはんを食べれなかったので、おなかも空いています。
パン屋さんを発見したので、入ってみることに。
クリームの入ったパンをひとつ購入。
お店の御主人に、今日はどこまで?と聞かれたので、「袋井宿まで行く予定です」と答えたら、「少し前に男性の一人の方もいらしたけど、浜松宿まで行くと言ってたよ」 と聞いて「本当ですか!?」とびっくり。 確かに途中 東海道ランナーとすれ違いました。 それにしても、今いる日坂から浜松まででも38.8㌔あります。 どこからスタートしてるかは不明でしたが、途中峠も越えてるのに凄い!
確かにすれ違った時に年配の方でしたが、すごく体格が良くて無駄な肉なんて無い感じでした。
私も最近さぼりがちなランニング、ちゃんとやろう。と思いつつ お店を後にし、ちょっと御行儀が悪いのですが、他に道を歩く人も居なかったので買ったパンを食べながら歩きました。
パンを食べ終える頃に ことだまの社、「事任八幡宮」に着きました。
参拝しようとあらかじめガイドブックに記しをつけていた神社なので早速参拝を。
境内の中の銀杏が葉を落として黄色い絨毯が出来ていました。
こちらでは御朱印も頂きました。
***
事任八幡宮を後に 西へ歩みを進めます。
ここからは平たんな道を進むので、少しランニングしながら向かいました。
掛川バイパスを越え更に進む。
目印となる伊達方一里塚。
旧東海道は掛川バイパスと並走するように西へと続きます。
途中、国道1号線と合流し 馬頭観音(小さい祠があります)を目印に左手へ逸れ また旧道へ。やがて葛川一里塚をへて掛川宿へと至ります。
葛川一里塚手前に街道名物「振り袖餅屋」がありましたので掛川の「食」とすべくお土産に1パック小さいのを購入。
その先、道がわかりにくいですが 新町「七曲がり」へと入ります。
七曲がりはこの先の掛川城、城下に安易に敵が入ってこれないよう宿場に造られた入り組んだ道ですが、なぜか私も地図を持っているのにもかかわらず、安易に歩けず 迷いました。(笑)
七曲がりを過ぎると掛川城大手門があり、本陣跡があるはずなのですが・・・・
こちらは大手門。
なぜか、「連雀沢野屋本陣跡」も「中町浅羽屋本陣跡」も両方見つけられず、しばらく 散策してみたのですが結局見つけられなかったので、付近のお店で茶蕎麦を食べました。
もっと時間があったらぜひ掛川城を見学したかったのですが、袋井宿まではまだ先なのでうしろ髪をひかれつつも先を歩く事に。
少し小さい写真ですが天守閣だけパチリ。
かつての宿場町はこのあたりだったと思われる場所もパチリ。
西へ西へと歩くと右手側に円満寺。
常夜灯を目印にやや右曲がりにカーブ。一応、道標もあります。
「平将門十九首塚」がありますが、なんとなく怖いので見ないで先に進みます。
だいぶ日が傾いて来て、少し不安になります。 「明るいうちに袋井宿までたどりつくんだろうか・・・・」 ここまで歩いてきた疲れもあり、足の裏も少し痛くなってきました。
さてさて 歌川広重 東海道53次「掛川」。浮世絵はこちらです。
秋葉詣の旅人が描かれていますが、現在の様子はこちら。
こちらは大池橋を写したものですが、浮世絵の橋は塩井川に架けられた橋。大池橋は倉真川に架かる橋なのですが、浮世絵の橋が現在では場所がどこなのか定かでは無かったのと 大池橋のたもとには秋葉山本宮秋葉神社へと続く道へと出るので大池橋からの展望を現在の様子として写してきました。
大池橋を渡り、左手へと進みます。
道なりに行き、目印の大池一里塚跡を過ぎ、掛川バイパスと東名高速道路を越えます、すると間の宿「原川」へと出ます。
原川の先、国道1号と交わり原野谷川に架かる同心橋を越えるのですが、国道1号と交わる際 地下の歩道から左手側へ進まないと、旧道には入れません。
こちらは原野谷川。 たいぶ日は傾き ますますあせります。東海道を歩く時は冬の間はヘッドライトが必要かもしれません。暗いと地図が読めないので。
橋を渡り、左手へと進む。
なんとなく旧道の名残のある風な道なのですぐわかりました。
東海道をずーっと歩いて来て、たまに道がわからなくなる事はあるものの、「ここが旧道だな」というものがわかるようになってきました。
道の幅とか、雰囲気とかでなんとなくわかるのです。なので方向音痴な私も以前は地図をくるくる回したりしたのですが 最近ではそれもしなくなってきました。(とはいえ、いまだに迷う事もあるのですがそれもこのあと、盛大に迷います)
旧道を進むと右側に赤い大きな鳥居が現れます。
街道は東海道らしく、松並木が続き しばし昔を思いつつ 歩きます。
久津部一里塚跡を過ぎ・・・
ようやく袋井宿への道標までたどり着きます。
「あともう少し・・・」空を見上げると 夕方の空に飛行機雲。
朝一番で飛行機雲を見て、今日の旅の終わりもおなじように飛行機雲が見れるなんて、なんだか面白いなぁ・・・ とぼんやり思いつつ、もう少しだ、と 疲れた足を動かします。
と、ここでまさかの道迷い。
ちゃんと道標も見ていたのに、疲れてたからでしょうか 道を逸れてしまって 「あ、たぶんここ間違ってる」と気づき、あわてて引き返してきました。
だいぶ間違ってしまって 先ほどの道標までもう一度戻り再スタート。
目印となる建物を何度も確認しつつ歩きます。
あたりはすっかり暗くなってしまいました。 民家も灯りをともしています。
知らない土地で暗い中 とぼとぼと歩く。 泣きたいような 切ない気持ちです。
「あそこになんか道標がある・・・」そこまで行ってみると、ようやく袋井宿の左端へとたどりつきました。
写真では明るく写ってますが、周囲は普通に夜の暗さです。
そばに「どまん中茶屋」もあります。 もちろん、もう閉まってるけど・・・。
時刻は17時頃でしょうか、今時期だとすっかり夜ですね。
最後に 歌川広重 東海道53次 「袋井」 浮世絵はこちら。
奥に見えるのは宿場。 宿場の手前の茶屋で茶をすすっている旅人が描かれてます。
現在の様子はこちら。
ちょっと方角的にあってるのかあやしいので次回の東海道53次でもう一度ちゃんと見てきますが、この写真を最後に 今回の東海道53次は終えることにしました。
今日は金谷宿から日坂宿まで6.5㌔、日坂宿から掛川宿まで7.1㌔、掛川宿から袋井宿まで9.5㌔の合計23.1㌔を歩きました。
途中の浜松まで行くと言っていたランナーさんはたどり着けただろうか・・・ あの走りを見た感じだとずっと時間も早い時間について、ひとっ風呂あびた後に浜松餃子とビールで乾杯してるかもしれないなぁ・・・なんて思いつつ、駅2つを戻り、掛川から新幹線でビールと駅で買ったパックのお寿司をつまみつつ、私も家路へと向かいました。
***
さて 東海道53次、無事袋井宿までたどりつきました。
袋井宿がちょうど真ん中なので、東海道53次半分踏破!
たくさん歩きました。
旅はまだまだ続きますが、半分歩いただけでも 色んな事があり 美味しい食べ物も 美しい景色も沢山思い出せます。
ここまで歩いて来て本当に楽しかったし、歩けて良かったと思います。
西行法師じゃないけれど、ほんとうに命あって 健康な体があるからこそ 旅が出来るんだと改めて思います。
東海道53次のツヅキ まだまだ 続く。
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